1889年、治五郎はヨーロッパに向けて旅立ちました。西洋式の教育方法を学ぶことと、柔道の普及が目的でした。当時彼の柔道は日本国内ではすでに必須科目となっていました。1890年頃、英国海軍の幹部に乞われる形で、60人の海軍兵naval attachesの前で柔道の実演が行われました。観客は柔道に魅了され、ヨーロッパに柔道を普及させるきっかけとなりました。

日本では国中に講道館の支部が設けられました。日本軍の命により、兵士向けの道場も開かれました。嘉納治五郎の考えは着実に広まっていったのです。1903年には彼の高弟のひとりがアメリカに派遣され、道場を開くと、大変人気となりました。当時の大統領、セオドア・ルーズベルトも道場を訪れました。講道館には、現在でもルーズベルト大統領から治五郎にあてた感謝状が保存されています。

1909年頃までに、彼は指導料や翻訳、弟子の指導などから得ていた蓄えをすべて使い果たしてしまいます。弟子の数が多くなりすぎて、そのままでは立ち行かなくなったため、新しい弟子からは入会金と受験料をとることにしました。1909年、治五郎はオリンピック委員に選ばれ、亡くなるまで委員として活動しました。

講道館の西ヨーロッパ支部は1938年以降に発足しました。治五郎により、小泉教授がイギリスに派遣されました。彼はロンドンに武道会という名前の道場を開きます。ハンノリはドイツ、そしてスイスへと派遣されました。カワイシはフランスで普及活動に努めました。オランダの柔道も、彼の普及活動により発展しました。